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見つけた。
何年か前に、出会ったサイト、閉鎖をしていたサイトに、また、出会った。
たぶん、同じカテゴリーに属する、哀しみを経験している方のサイト。
サイトを閉鎖、ということが、立ち直った証なのか、ただ、決めていたことなのか、は分からないけれど。
またそのサイトに出会う、ということが、いいことなのか分からないけれど。
何故だか、悲しくて、でも、嬉しかった。
何でなんだろう。
カテゴライズすれば、きっと同じ哀しみ。
けれど、それはイコールでは、決してない。
人の哀しみを、覗いたところで、別に何も、発展しない。
なのに。
知りたいと、思ってしまった。
――――――――
哀しみは、後悔は、私には、余りにも不条理に思える。
余りに突然、突きつけられて、防ぎようがなくて。
でも、どうにかして防げたんじゃないか、という思いが消えなくて。
何かが、ほんの少しだけ、違ってさえいれば、
結果は、違っていたはず。違いすぎたはず。
そう、責める気持ちが、消えない。
全ての事象は、些細なことの、単なる積み重ねの結果のはずなのに。
防げないはずなのに。
遺された選択肢は、狂うか、壊れるか、忘れるか、攻撃するか?
攻撃する先は、自分か、自分に近い者か。
受け入れる、という選択肢は、存在するんだろうか。
乗り越える、という選択肢は、選ばれるんだろうか。
なかったことにする、忘れたふりをする、は私はきっと得意だな。
けれど、何かの拍子に、ひょっこり顔を出したりして。
壊れるか狂うかしない限り、残酷なほど、普通に流れる日常はあるわけで。
いつか、乗り越えようと気持ちが動いても。
迎えるしかない日常に、紛れていく想いに、たまらない罪悪感を覚えさせられる。
忘却は、人間の最大の知恵、と言ったのは誰だっただろうか。
生きていくための、知恵。
けれど、人間の記憶力は、無限なんだ。
ただ取り出しにくくなるだけで、消去されたわけではない。
もう、14年は経った。
それでも、私の中で、何も解決していない。
まだ、受け入れられては、ない。
私は、酔っているだけなんだろうか。
皆は、どうしているんだろう?
こうして、文字にすることで、ぎりぎり保っているんだろうか。
カタルシス?
浄化なんて、されない。
語ることが、タブーになっている感すらあって。
話題に上ることすらなくて、触れられなかったけれど。
ある時あっけなく、連れて行かれたのは、いつだったろう。
あっけらかんと、きれいで、穏やかな場所に。
もう、乗り越えたの?と訊きたくて、訊けなかった。
手を合わせることが、恐かった。
現実として受け入れられない私と、
現実として向き合わざるを得なかった人との違いなのか。
私は、その人を、正直好きじゃなかったから、辛くなかったのか。
好きじゃなかったからこそ、辛かったのか、分からない。
気持ちが、あんまり近しくなかったから、向き合えなくても問題なかったのかな。
私には、そのこと自体よりも、その人のこと自体よりも、
そのことによって影響された、人たちの問題、の方が、問題だった。
私にとって、大切な人たちが、影響されている、ということが。
私とって大切な人が、現実を受け入れられなくて、そこにいる、ということが。
私は、やっぱり許せない。
その人を。
その人の苦しみや、哀しさや、色んなことは決して理解できないけれど。
でも。
その人によって、そのことによって、もたらされた影響は、決して、受け入れられない。
遺された苦しみは、自分を責める、という苦しみは、至上のものだと思うから。
遺された苦しみは、遺されたが故に、また、新しい苦しみを、哀しみを生み出すことが多いから。
皆は、どうしているんだろう?
ねえ、14年経ったって、受け入れられない人だって、ここにいるんだよ。
数年で、無理に、乗り越えようとなんてしないで。
いや、乗り越えられるなら、それがいいけどね。
でも、当たり前の日常に、気持ちが向いたときに、そんな自分を責めないで。
忘れることができる、ことも、忘れられずにいる、ことも、
きっと、どちらも残酷で、でも、どちらも正解なんだと思う。
確実に、薄らいではいる。
時の流れが、記憶を薄めてはいる。
私は、直面はしなかったからだろうけれど。
私は、遺された苦しみは、味わってはいないと思うから。
遺された苦しみを味わうほど、心が近しくなかったから。
遺された苦しみを味わう人の苦しみを、ただ、ちょっとつまみ喰いしただけだから。