[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
3/11(金)大震災。私自身は直接的な被害がなかった。
当日は、家に帰れず、電話も通じず、状況が読めず、同僚の家にお邪魔をした。
家族と連絡が取れないことが、こんなにも不安なのだと思い知った。
水の有難さを少し、思い知った。
当初は、状況が分からず、地震体験車のような揺れに驚きつつも、どこか楽観視していたけれど、日を追う毎に被害の大きさを知った。
波及する様々な問題も。
今も尚、命を賭している人がいる。
その日、不謹慎な話、私は私なりに死を思った。
ピアノが弾きたいと思った。こんな時に。
夜、怖くて眠れなくて、家族の声が聴きたくて、不安で不安で、
それでも、ピアノを弾きたいと思った。
今日、このまま死ぬならば、ピアノを弾いてから死にたいと思った。
今思えば、被害がなかったからこそ、思った死なのかもしれない。
実際に死に直面していれば、そんなこと思えなかったのかも、ね。
未だ家族の顔を見ていないけれど、でも、
忘れてはいけない問題がたくさんあるけれど、でも、
軽々しく言えない被害を受けた人がいるけれど、でも、
せっかく永らえた命を、今、懸けている人がいる、でも、
こんなに怯えているのに、でも、まだ、遠い。
全てが遠い。
忘れた振りをして、一生懸命、なるべくいつもと同じような振りをしている。
私は、私が今、置かれている状況で、生きていくしかないんだ。
誰かが苦しんでいることを、決して忘れてはならないけれど、でも、
私は、私の毎日を送らなければならないんだ。
泣いて立ち止まることは許されない。
笑顔で歩き出すことを許されたのだから。
どうか、どうか、少しでも、全ての人の苦しみが、減りますように。
どうか、少しでも早く、苦しみが減りますように。
どうか、どうか、もう、命を懸ける羽目になる人が、いませんように。
どうか、どうか、誰かの大切な誰か、が、これ以上、苦しみませんように。
大切な大切な友達が、出産した。
嬉しくて嬉しくて、お祝いがしたい、と思った。
安定期に入った頃、連絡をもらっていたので、もうそろそろかな、と思っていたし、ずっと、お祝いに何を贈ろうか、考えていた。
少し前に、別の出産した友達の時は、仲間3人で『あーでもない、こーでもない』って話し合って、結局、本人に調査をして、決めた。
『気を遣わないで』とも言ってくれるけれど、『お祝いしたい』という気持ちをちゃんと受取ってくれる人だし、言ってくれたほうが嬉しい時に、さくっと本音を言ってくれる人だから、本人調査は良かったと思う。
自宅に招いてくれた時、持って行ったのだけれど、出産後しばらく経って、本人も落ち着いたから、と招待してくれたので、調査も「メールする元気もない!」という負担にならずに多分、済んだと思うし、ご主人も共通の知り合いなので、迷惑になりにくかったと思う。
今回、出産した友達は、『あーでもない、こーでもない』って話し合う仲間が私の周囲にいない。
遠く離れた友達で、私は一人で『出産祝』をしないといけないのだ!!(大袈裟)
最初は、参考程度に♪のノリでネットで色々調べていたのだけれど、段々、分からなくなってきた。
贈るものについて
・現金(商品券)が一番!(結局一番何にでもできる、内祝いにも使える)
・現金(商品券)はあまり(友人の場合は味気ないかも、物に比べてより内祝いの必要性が高まる)
・〇〇がいい(理由は〇〇)そしてその反対意見(理由は〇〇)
といった具合で、迷いに迷った。
結局、何が嬉しいかは人による(当然といえば当然)、本人に調査してみたら、という意見も結構あったので、恐る恐るメールで尋ねてみた。
ちゃんと答えてくれて嬉しかったんだけど。
・お祝いを贈ること自体、負担になる(気持ちの負担、内祝いをしないといけない)
・お祝いを何がいいか尋ねること自体、負担になる(気持ちの負担、ほしいものを考えてメールする元気や暇がない、それどころじゃないこともある)
という意見。見つけちゃいました。
内祝いを知らなかった訳じゃないけれど、友達同士で、物だったら、そんな気を遣わせなくて済むと漠然と思っていた。内祝いをしない習慣の人、地域?もあるみたいだし、贈るタイミングや額、間柄によっても対応が違ってくるのだろうけど、もし、内祝いを、と負担になったらどうしよう?て不安になってしまった。
(内祝いもさくっと全員統一で、旦那さんが手配してくれて、とかなら、金銭的な負担だけで済むらしいけれど)
内祝いいらないからね、って言うのもなんだし(内祝いを断ること自体が失礼という考えがある、内祝いをそもそもするつもりがなかった場合、逆に催促になり兼ねない、断っても贈ってくる人が多い、など)。
多分ね、友達は、『祝いたい』という気持ちを分かってくれる人だ。もし、私が何も贈らなくても、『おめでとう』という気持ちだけをちゃんと受取ってくれる人だ。もし、ピントがズレた物を贈ってしまっても、気持ちを汲んでくれると思う。
だから、何も贈らなくても良かったと思うし、調査しないで贈っても良かったと思う。
でも、どうしても贈りたい。私にとって、本当に本当に大切な人だから。精神的な恩人だから。大好きな人だから。
ありとあらゆるものを贈りたいくらい。で、喜んでほしい。
でも、だからこそ、気を遣えって話で。
良かれと思ってしたことが、逆に迷惑になる、ということはきっと間々ある。
それでも、私が相当失礼なことをしない限り、この友達は、良いほうに解釈をしてくれて、迷惑でも、迷惑はさておいて気持ちを汲んでくれる人だ、と信じられる人だ。
だから、こんなにまどろっこしくグルグル考えていないで、決めろって話なんだが。
何だか、お祝いを押し付けている気分になってきた。
スタートは、純粋だ。それは自信がある。おめでとう!という湧き上がってくる思いは、純粋だ。でも、『おめでとう!』→『気持ちを伝えたい』→『喜んでもらいたい』→『喜ばせたい』→『喜んでくれるよねっっ?!』と変化してしまっている気がしてきた。
『喜んでくれること』を強制している気分。
先日、別の友達の誕生日をお祝いしたときもそう、本当に色々悩んで、決めた。
それは、悪いことではないかもしれないけれど、必死になりすぎる自分が不思議。
友達は、『物品』は多分、求めていない。『おめでとう』という言葉できっと充分だ。
しかも、それすら忘れちゃっても、きっと、怒りはしない。分かっている。分かっているんだけど…。
当日にメールしないと私が気が済まない。
やっぱり相手に気を遣わせることは事実で。負担になっているかもしれない。
お返しを強制しているようだ。
結婚も出産もしたことがないし、予定がないので、分からないけれど、
誕生日は毎年来る訳で。お祝いは、正直求めてる…わな。
メールは、欲しいかも。勿論当日じゃなくても、いいんだけど、『そういやお誕生日だったね~』くらいのテンションでも充分嬉しい。何だろうな、時期が近くなくても、会った時に、『誕生日だったね』的なことだけで嬉しい。
どんだけ飢えているんだ、私。
多分、私からメールが行く友達は、私の誕生日メールが仕事のようになっているかも。ごめんね。
休み中の誕生日でなかなか祝ってもらえなかった過去が私をこんなにも、この歳になってもこだわらせるんだと思う。幼稚園の頃から、前の月か、次の月とセットにされてしまうし、小学生の頃も、休み中で皆いなくて誕生会とかあんまりできなくて、悲しかった。そのせいじゃないかと分析。
話がそれてしまったし、考えたり、分析していくと、どんどん、いやらしくなっていく気がするので、
とにかく、最初の『おめでとう!』という素直な気持ちを、何かに込めて贈ろうかな。
ふと、そう思う。
間もなく30歳。
独身、女。
仕事、一応、あり。
将来設計、立たず。
―――
以前、NHKの大河ドラマ、篤姫を撮り終えた宮崎あおいさんの写真が載っていた。
相手役の堺さんが花束を持って現れて、
花束を抱えて、泣きながら、しゃがみこんでいる宮崎さん。
その傍らに立って、少し腰をかがめて、労わるように、微笑む堺さん。
そして、二人でしゃがんで、涙の中で微笑み合う。
そんな写真たち。
それを見て、涙が出た。
思い出している今も、涙が出る。
あんな風に、泣けるほど、しゃがみこめるほど、
周りに祝福されるほど、
成し遂げたことがあっただろうか。
―――
分かっている。
そこにどんな苦労があるか、計り知れないことを。
スポットが当たる分、想像もつかない苦労があるんだろうけれど、
それを分かることなんてできないことを。
分かっている。
光が当たることがすべてじゃないと。
光が当たる、その為に、数え切れない、分かられることのない、
誰かの努力があることを。
分かっている。
分かっている。
歴史に残るようなことを成し遂げるばかりがすべてじゃないと。
分かっているよ。
―――
この瞬間にも、どこかで誰かが働いている。
たまたまつけたテレビから流れる『くだらない』番組で
ただ騒いでいるように見えるその現場でも、
誰かが必死にあがいている。
―――
最近、諦めと言うか何と言うか、少し考え方が変わった。
何も何かを成し遂げることがなくても
それなりに収入を得て、少し余暇を楽しめるくらいね、
趣味なりを楽しんで生きていければ、いいのではないか、と。
(これを親の世代は『最近の若者は上昇志向に欠けていて、努力をしない』
と、嘆くらしいですが…。)
もともと、別に大きな野望があったわけじゃないけれどね。
ただなんとなく、30歳と言えば、もう少し、色々なものが手に入っていたり、見えてきていたり
そういう歳だと思っていた。
ただ、漠然と。
なのに、全く見えない。
今、『それなりの収入』を得ることも難しい世の中だ。
男性は男性でもちろん、とても大変だろうけれど、
女性がこの先、歳を重ねていく中で、キャリアもなく、収入もなく、となるとしんどい。
今は、健康だけれど、それも一生続くわけじゃない。
色々考えると、足元が崩れそうだよね。
というか、この文章を書いていて、へこんできた。
絶望、焦燥感、諦観、と言葉にしてしまうと、何だか大袈裟だけれど、
色々な感情が綯い交ぜになった、なんともいえない感じ。
みんな、良く、生きているよね。
偉いよね。本当。
私、しんどいわ。
卒業したい。こんな想いから。
と、思いつつ、ま、とりあえず目の前のことをこなさないとね。
試験まで残2ヶ月の今、ようやく少し勉強するようになった。
オイオイ、という遅さだけれど、間に合わないことは明白だけれど、
またいつ気持ちがどうなるかなんて分からないから、
今、少しでも勉強しようかと。
そんな訳で、仕事帰りに夕飯も兼ねて、
お店で長居する今日この頃。
比較的、長居しやすくて体に悪くなさそうなのは、
と考えていくと、やっぱりファミレスになる。
そう、ファミレス。
ファミリーレストラン、なのよ。
ファミリー!
小さい子やら生意気盛りやら、色々いる訳で。
鼓膜が破れるか、というくらいつんざくような声を出されない限り、
うるさいのはまあまあ平気なんだけど。
ダメなんだよね、幸せほっこり家族こそが。
昨日も隣の家族がとてもいい感じで。
とってもいい子なんだけど、時折、ちょっとふえふえぐずったりする女の子、
穏やかにたしなめるお父さんと、フォローするお母さん。
うるさくない、穏やかなトーンで。
もう一つのテーブルは、元気な男の子2人とお母さん。
お行儀よくお食事しながら、
元気で明るくて、お子さんにお茶目な突込みを入れるお母さん。
2組とも、どうしても声が高くなりがちな小さい子連れなのに
うるさくなくて、ほほえましくて、
お食事処で勝手に勉強している身からしても文句のつけようがないのに。
気になっちゃって気になっちゃって。
ああ、飢えているんだな、私。
ほほえましくて、女の子がちょっとこっちに来ても、
相手をして、愛想をふりまくくらいの余裕は見せる私だけれど、
何だか涙が出そうになる。
週末のスーパーも、昼間の公園も、ファミレスも、
ありふれた分かりやすい幸せがあふれていて。
たまらなくなる。
それなのに
公園のそばを通ってせっせとスーパーに通い、ファミレスにこもる私。
何だかな・・・。
で、就職相談。
やはり、雇用状況は厳しい、という現状を聞かされる。
厳しかろうが、なんだろうが、落ちる人(私、経験者)は、延々落ち続ける。
けれど、ま、いい気分ではないわね。
在職のまま、就活しようと思っているので、注意点を訊く。
書類選考が通った場合、『相手企業の指定した日時に面接に行けるのか』が最大の問題。
行ける訳あるか!
「有給とか取れないの?」と訊かれる。
いやいや、有給取れるような、まともな会社なら、こんなにさっさと転職しないから!!
ボーナスどころか、残業代も出ないし、給料だって怪しいんだ!
有給どころか、風邪でダウンして休んだら、退職を迫られるような会社だ!
親族が亡くなって、法事が理由でも、誰が亡くなったのか、出なきゃダメなのかとしつこく訊かれるんだ!
(ま、確かにズル休みの定番ではあるが、なんとも言えない気持ちになるわっ)
と内心叫びつつ、「周りを見ていると取れそうにもないのですが」と控えめに言ってみる。
「でもあなた、こうして土日は休めるんでしょ?」とハローワークの人に言われる。
『だったら有給だって取れるんじゃない?』ということだわね。
そうね、あなたはこうして働いているのに、私は休んでいますわね。
けれど、土日の休みを確保するために、私は、結構戦ったんですけど!
「他の皆さん、土日も出ているし、有給までは厳しそうです」と言ってみる。
勿論、土日も無給でな!と心の叫び。
「だったら無理よね」
……
「そうですね…」
終了ですよ!
終了!!!!
在職中の人、どうやって就活してるの?